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万魚の雑々日記

ドラマや映画や文学のこと、家の周りに置いて行かれたり福島原発事故後警戒区域になった町で出合い同居している猫たち犬たちのこと、要介護の継母のこと、自分自身のこと。・・・煩悩多きブログだが何か光のようなものも感じるままに。別ブログ「なぜぼくらはおいていかれたの」http://ameblo.jp/kaze-amb

和歌山県の餌やり禁止条例に思う2

ひとつ前に、「和歌山県の餌やり禁止条例」に反対する記事を書きましたら、「じゃおまえが引き取れ」というコメントをいただきました。

「お、待ってました、このセリフ!」と言う感じで受け止めて失礼ですが、実際ちょうどいいので、いただいたコメントにからめて続きを書いておこうと思います。

 

↓続き(青文字にしておきました)

 この条例が戦争が出来る土壌にしていく流れを助長する、と感じてならないんですよね。

なぜかと言いますと、

この条例で、人の多くが、猫が空腹で苦しみ死に至ることを”仕方がないこと”

として受け入れるようになり、”それが普通のこと”となっていき、可哀想に思う人が

餌を与えるのを、”悪いこと”として批判し排除していくでしょう。

人々は慈愛心を失っていくのです。

他者への慈愛を失っていく社会は、これからどのようになっていくのでしょう。

戦争に突き進んでいく道程も、国民の多くが人間としての何か大切なものを失っていったあげくのように感じてならないのです。

 

など言いますと、「餌をやりたいなら、自分で飼ったらいい」と言う人がいます

 

私はそうしましたよ。ひもじさに鳴く猫を殆ど家に入れましたよ。

私のその行為を知った人が、次々私の周りに猫を置いて行きました。自分の飼い猫が

生んだり、自分が拾った猫をです。まるで、私が全部を引き受けるのが当然のように。

そして私の家は汚れ、膨大にかかる手術費用と餌代で、進学等のある息子を

抱えているのに、預金も出来ない苦境におちていきました。

さらに、人々の誹謗中傷にさらされていきました。

苦しさのあまり怒れば、今度は多くの人はこう言います。

「いやならしなきゃいい」「好きでやってるんでしょ」

 

なるほど。そう来るんですね。

なぜ、捨てる人や捨てることを許す社会に、「捨てるのいけない、やめよう」と言う発想にならないんですかね。

一人一人が、捨ててはいけないんだ、と本当に気づいていけば、これまで保護して苦しんでいた人は救われるし、野良猫の糞や過度な鳴き声を迷惑に思っていた人も安心します。

 

行政もそうです。

なぜ真剣に、住民に捨てない指導をし続けないのでしょう。

私の記憶というか感覚では、20数年ほど前から、妙な方向転換をしましたよね。

つまり、慈愛心をもって捨て猫や犬を助けていた人たちへの”弾圧”が姿を現したのです。それまで、助けている人たちに、遠慮というのか、引け目すら持っておられるような感じがありました。

それが、急に、助ける人の内の誰かをターゲットにして、バッシングをあおり排除していく方向をとりはじめた。

これは私がそう感じたというだけのことかもしれません。証拠云々というものがあるわけではありまえんから。

 

でも、行政と一部の運動慣れした活動家愛護団体が、捨てられた犬猫を可哀想に思う心情派を、一人ひとり潰し始めた・・・という私の感知は妄想と片付けられないものがあったと思うんですよ。

運動慣れした活動団体は、寄付を集めることに長けて、それは社会性に長けておられることでもありますから、メディアを動かしてもいかれた。

そしてあっという間に、捨てないこと、慈愛心の敬意を培う方向より、形の上の行政と愛護活動の連携を作り上げていった。

このことを悪い、と言ってるのではありませんよ。

連携は大切な手段ですし、実際有効でしょう。

ただ私は、住民の意識を高めようとせず、捨てることを容認して、形の上では理解し合ってるようにしていったことを、軟弱だなぁ、インチキだなぁ、と思うのです。

 

とにかく大事なのは、底辺に、「捨ててはいけない、不妊手術をする」という意識をしっかりと根付かせていくことではないかと思うのです。難しいのはわかります。

でも諦めず、時に住民から反感をかっても、「捨てないこと、子猫子犬がいらないなら産ませない手術を」を常識にまで高める必要があったと思います。

チラシを配布だけでもダメです。定期的に行政や信頼できる愛護団体が、自治会を通してでも定期的に話し合う努力をすべきでしょう。

 

先日私は茨城県のセンターの方に、「不妊手術をした猫の耳カットの意味を、住民に行政から教え、耳カットした猫は、もうこどもが増えないので、捨てたり処分をすることを考えず、終生見守っていきましょう、と指導してほしい、とお願いしましたが、よくわからなかったのですがつまるところそっちでやってくれ、と言う意味の返事で、大変大変失望しました。

『自分でどれだけ近隣に言ってきたかわからないですよ! 誰かが森に捨てていった猫の手術をし、近隣の一軒一軒に、こどもは増えないのでどうか処分や捨ててしまうのはしないでください、と死ぬほど頼んで回ったですよ』と喉まで出かかりましたが言葉を飲みました。空しい議論になりはては行政の権威にこちらが一方的に悪者にされるだけだ、と体験的に知っているからです。

 

なぜ、暮らしの中の地道な真の愛護指導をしないのでしょう。

そして、私のように、一人っきりで実際に自力で手術をし守っている者の不備を見つけてはモンクをつけられるのでしょう。捨てる人たちの側につき。

それは、味方の殆どいない私のような者をバッシングしていくことのほうが楽だからです。実際はいじめのようなこともあるのに、です。

とにかく、日本の動物愛護の方向はこれでいいのか・・・悲しい思いです。

 

※ペトショップの在り方、法律的なことなどなどにおいては、優秀な活動家の皆さまが、行政や政治家と連携して素晴らしい実績を上げておられることは理解しておりますし、敬意を持っております。

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いつもに増して容量の悪い文ですみません。今夜中にやらなくてはならないことがあり、書き直しはしません。悪しからず。