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万魚の雑々日記

ドラマや映画や文学のこと、家の周りに置いて行かれたり福島原発事故後警戒区域になった町で出合い同居している猫たち犬たちのこと、要介護の継母のこと、自分自身のこと。・・・煩悩多きブログだが何か光のようなものも感じるままに。別ブログ「なぜぼくらはおいていかれたの」http://ameblo.jp/kaze-amb

群馬のA子さん

昨日、しばらく電話で話す。

私から用事があってかけたのに、私の伝えたかった話が終わると、「一度切って」と言ってかけ直してこられ、「話したいので」と。私のなんとも愚なる苦難苦境にしてしまう生き方の現実をこうして思い遣って下さるのは、この人と、高知のJ子さんと、松山のT恵さんと、長野のS江さんである。東京のR子さんは別の形の思い遣りで私の苦境を救って下さっている。埼玉のM恵さん、東京のM子さんもそうだ。

私は実際のところ、夫が遺してくれた年金だけで、現在27匹の犬たち猫たちと継母と生きる暮らしで、この上に福島への給餌と常に置き捨てられていく森の猫たちの手術費用が必要で、自分は野菜の酢漬けだけの食事ということもある困窮の中にいるのだが、こうした長年の友人の思い遣りで、なんだかんだと言いながらも精神の安定を得て結構ゆうゆうとのうのうと生きている。

 

昨日のA子さんの電話に戻るが、私はこの人と話すたびに、『A子さんは不思議な人だなぁ』ある感興にひたる。どこかの海の浜辺の無数の小石のなかに埋もれているたったひとつの宝石のような人だと。

A子さんは特に社会で何かの活動をしてるという人ではない。それなのにすべてを見通しておられると感じる達観性があって、話していると不思議な安堵感にひたされてくるのだ。開き切っているこちらの心の奥のすみずみに、人の真っすぐで純粋な温かさが注いでくる。

 

こうして真夜中に目覚めた折にそれらを思い起こしていると、自分が疎外感に苦しむのがなんと強欲で傲慢なんだと思えてくる。

社会を欺瞞の花園にしているのは、自分のような、表向きは確かに物欲めいた欲は持っていないが、自分の孤独感や孤立感の寂しさ、不安を埋めたいための自己中心性と渇望感にもよるんだなぁとしみじみとした悔恨を覚える。

 

A子さんは、そういう私に、静かに言ってくれた。

「和恵さん、個人や組織に関わらず相手がいて自分がいる関係の中での痛みは、足で砂をはらってあとは忘れて前に進む、ということであっていい、という場合もあるのよ」と。

なかなかこうは生きられないが、不思議な慰めを溢れるほどいただいた気がする。

これから少し眠って元気な朝を迎えようと思う。