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万魚の雑々日記

ドラマや映画や文学のこと、家の周りに置いて行かれたり福島原発事故後警戒区域になった町で出合い同居している猫たち犬たちのこと、要介護の継母のこと、自分自身のこと。・・・煩悩多きブログだが何か光のようなものも感じるままに。別ブログ「なぜぼくらはおいていかれたの」http://ameblo.jp/kaze-amb

湯浅誠さんの「自立について」を読み「愛護について」をも含めて考える

yuasamakoto.org

・・・・・・・・・・・・・

湯浅さんは上のブログ記事の中で、こう↓書いておられる。

 

「みんなで庭の落ち葉を掃くプログラムをやったとします。その人は最初みんなが掃いているのを見ている。そのうち、自分も参加して一緒に掃くようになる。それが自立です」

「そのうち、ここ(庭の見える食堂)に座っているときに、外を眺めながら『ああ、そろそろ落ち葉を掃かなきゃな』と思うようになる。それが自立です」

記憶に留めておきたい言葉だった。

 

・・・↓管理人の私感・・・・・・

私は上の文を読んで、『ああ、そうだなぁ』と深く感銘を受けた。

そして、「私の捨てられた猫や犬たちに関する愛護感覚も、こういうことだなぁ」と頷いた。

これは愛護活動はこういうことだ、と言ってるのではない。たくさんの活動家、個人ボランティアの方が尽くしておられる愛護の形、方向性は、殆ど、とても貴重で重要なことだと思い、活動をされている多くの方に敬意を抱いている。

 

私がここで言おうとしているのは、「自分は、湯浅さんが書いておられる自立の形に近い感覚であるなぁと思う」というつぶやきなのだ。私の感覚が正しいともこの方向性がいいのだとも思うところはない。

 

私がたまたま出会った一匹の小さな捨て猫を拾っていっしょに暮らしたことで、日本での無責任人による捨て犬猫の多さ、行政の犬猫の施策の冷酷さ、残酷さ、不備などを知っていき、言動の上では「愛護活動」と称されるような流れになってもう三十年を越えてきたのだが、私はただただ我が家と近隣の犬猫の守り人でしかなかった。(※精霊の守り人の守り人と言う言葉を使わせていただきました)

 

それでもね、私が動物たちを守りながら暮らした土地から、別のところに引っ越していくと、私たちが去った地で、「佐々木さんに苦しみを与えるだけ与えて何も助けてあげられなかった。気の毒なことをした。これからは不妊手術をやっていく」という声が自然にあがり、そこでは捨てられた犬や猫がいなくなったそうなのです。

これは私の希望的作話や妄想話ではないのですよ。

埼玉のK市、そこから家族と近隣への迷惑を避けるために犬猫を四十匹以上連れて独りで住んだK原でも、同じことを言われたのです。

 

K原市は別の問題も起こって難しい土地柄でしたが、そこを引っ越して一度だけお世話になった挨拶にお隣りを訪れた時、Mさんという主の方が(後年亡くなられた)、「あんたは変わってるねぇ、最初、犬猫たくさん連れてきてわけわからんからあんたを追い出そうとしたが、あんたはいつもにこにこして犬猫の世話をしていた。馬鹿なんだとみんなで言っていた。だけどただの馬鹿じゃない、と思うようになって・・・あんたが引っ越して来た時よりわしらが捨てて増えた動物連れていなくなったあと、こっちは一軒づつ、飼っている犬猫の手術をして、今じゃ、以前はしょっちゅう川に浮かんでいた猫や犬の死骸がなくなった。それが普通なのだと思うようになったよ」と。

 

でも私のほうはそれで苦がなくなったわけじゃなかった。

新たに引っ越してきたこの地は史上最強に無理解といじめ的扱いをしてくる人が多かったし、脳梗塞の後遺症で療養していた夫の重い介護を抱えながら、犬猫はもっと置いていかれ、辛かったですけどね。(苦笑)

 

それはともかく、私はこうした経緯の中で、運動や活動をやって社会に立とうという気はなく、ただ心開きあえる友達がほしかった。

でも、人というのは、社会にしっかり立派に立って尊敬や経済を受けることを目的にするものらしく、私の一生懸命さは、そういう尊敬や経済を得たがってのことだとしか思わない人に、排除の標的にされることが多かった。

動物関係に限らず、どこの分野もそうでしたよ。愛や平和を目指すところこそね。

 

・・・・・など言うと、必ず、「問題は自分から出る、心がけをかえると問題はおこらない」という説話をしてくる人がいますね。

それはそれでいいのですよ。その通りであるでしょう。

 

でも、そうではないこともあることを私は知っていますよ。

一見自らを低きに置いた謙遜の言葉は尊く深いように見えますけれど、実際に生きる中の現実の残酷の深みを理解しないそういう言葉は、鼻持ちならない残酷な独善でしかないこともある。

 

己の貧しい自尊心や醜い利得心を満たすために、ただの癖や失敗や人よしさやぼんやりで不備を生じただけのことなどで、自分の舌と取り巻きを使って他者を人格なき者にする狡猾な人間たちはいる。確実にいる。彼らは真に善良な無欲な人間をこそ餌食にして自分にない善の美徳を奪いつくそうとする。・・・私は名指しが出来るほどそういう人間を知っている。

 

私はたまに、そういう人間をブログにありのままに書いたりすることがある。その人の前に、鏡を立ててみる感じに。

たいていの人は、その鏡に狼狽し、鏡を立てた私を躍起になって排除しようとする。私を非道の存在に仕上げて。必死で味方を作り。

 

ここで自立ということに戻ります。

思わぬ鏡をつきつけられた時、鏡に映った己を見つめてみる勇気・・・これが自立であると私は思っている。