万魚の雑々日記

ドラマや映画や文学のこと。要介護の継母のこと。自分自身のこと。・・・福島原発事故後、置き去りにされた猫たちに給餌に通った頃のこと、いっしょに暮らすちょっと多めの犬や猫たちのことを書いた別ブログもあります。(なぜぼくらはおいていかれたの)

ポケモンGO

パソコンのゲームを開いたこともない。

ポケモンも知らない。ポケモンGOというものをテレビのニュースで見かけるが、何が面白いかもわからない。関心が起こらない。

 

グルメでもない。

肉は食べない。

 

カラオケというものも関心がない。

犬たち猫たちのご飯代と不妊手術代を得るために、銀行、プール(泳ぎのコーチ)、食品会社などの仕事をしたが、どこでも、休み時間の同僚とのおしゃべりの間も、早く働きたくて働きたくてならなかった。「佐々木はいつも社内を駆けってる。チンタラ歩いているのを見たことない」と言われた。

自分でこういう性分をいいことだと思っていなかった。みんながさぼっているときは一緒にさぼったほうが場の雰囲気が幸せになることだとわかっていた。でも自分はさぼっても何も楽しくなかった。いつも目いっぱい働いていたかった。

それは上に気に入られようとか、そんなことは爪の垢ほどもなかった、が、ほかからそう中傷されて、あげく、制服を掃除道具入れロッカーに丸めて捨てられていたりした。ここまでくると、こっちがうざくなってうっとうしくなって辞めた。

 

銀行では200人の外回りをまかされて、自転車で各戸を訪問したのだが、自分でいうのも何だが、息をするのも惜しむほど働いた。でも、一回だけ、疲労困憊して、外まわり中に喫茶店でアイスコーヒーを飲み、そのことを同僚の一人に「美味しかった~」と話したら、課長に告げ口され勤務三か月もなってないのに首になった。

課長は、私が外回りで誰にも見えないのをいいことにさぼってばかりいたと決めてしまったらしい。そして、その証を確認するために、行員の車に乗って、私の担当の地区を最後に回らせた。

 

私は二日でその行員同行で、200人のお宅を案内した。

行員は、「自分も見つけられなかった客の家まで、佐々木は探して行っていたんだ。三か月で頭に全部入れていた。それが出来るのはそれだけ働いたということだ。さぼってなどいなかった」と課長に大声で報告して下さった。

課長は私が最後の日に、涙を流して謝罪された。

 

戻るように言われたが、きっぱりと断った。誰のこともなんとも思わなかったし告げ口した人を悪くも思わなかったが、その職場にまるきりもう関心がなくなったのだ。退屈なだけだと思った。

 

私はどうも、こういう巡りあわせに生まれたんだなぁ、何をやっても荒野にひとりといことになってしまうんだなぁ、とは思ったなぁ。老人になった今もそうだ。

 

私は楽しみというものを知らない人生を送っているのかもしれない。

 

でも作品を書いている時は没頭する。そうして年に二冊本が出た。そういう年が数年続いた。

なぜか、それについて、奇奇怪怪な誹謗中傷が出回った。他者の作品を自分のものにしたと、編集者をなんとかして本にしたとか。・・・奇奇怪怪は、そうした誰かの作為、それも何らかの地位のある誰かの作為であった場合、そっちのほうが真実という鎧をまとって広がることだった。

ある種の人というのは、私のような個人を殺すことなどなんとも思わないのだ、と知った。苦しい時代が続いた。夫の認知症はひどくなるばかりの時でもあったし・・・思えばよく生きてきた。

ひとりぽっちで、荒野で生き埋めにされた状態で、ほんとによく生きてきた。しかもひょうひょうと。こどもの頃から、馬鹿か利口かわからないと周りの大人に言われてきたが、馬鹿なんだろう。でもそれは神仏の恩恵に違いない。ほんとにそう思う。