万魚の雑々日記

ドラマや映画や文学のこと、家の周りに置いて行かれたり福島原発事故後警戒区域になった町で出合い同居している猫たち犬たちのこと、要介護の継母のこと、自分自身のこと。・・・煩悩多きブログだが何か光のようなものも感じるままに。別ブログ「なぜぼくらはおいていかれたの」http://ameblo.jp/kaze-amb

模倣犯 後編

前編に比せば今夜の後編のほうが面白かったが、全体にありきたりという感想だった。

猟奇的殺人鬼の殆どは、幼い時期、親や自分に影響大だった誰かからの虐待を受けたトラウマにその原因がある、という筋書きだが、この映画もまさにそのまんまで、犯人の男が犯罪のスタートは親を殺しているだろうというのも容易に想像がつくものだし、とにかくつまらない凡庸な作りだった。

 

思うに、犯人の若者はこどもの頃、親、親の愛人、愛人の家族から凄惨ないじめにあっているわけだが、作品の主軸に、いじめた側への関心が全く描かれてないのがなんとも空っぽに感じて仕方がなかったのだ。

結局、不遇な幼児を慈愛で救おうとする大人がいなくて、ただただ財産を減らしたくないという理由で、ひとりぽっちの幼児を恐ろしい目に合わせ続けてきた存在の意味は、私は社会や世間を形作って居るものとして現実的にそれこそが重要ではないか、と思えるので、そこに視点を持たない映画は既成の範疇を出ないもの、でしかなかったのだ。

 

それにしても、雑誌記者の中谷と、テレビ放送の中で対決した犯人が、中谷の作話にあんなに易々とひっかかってしまうってのはどうなんだろ。中谷の話は作話なのだから、犯人は当然『これはひっかけだ』とわかるわけで、それなのに、あれほど幼稚な狼狽に堕ちるものかなぁ。私はそういうところがつまらなく感じて仕方なかった。

またラストにもう一度中谷が恐怖に合うこともなかったのがあれれ????であった。

 

今日(9月22日)の東京新聞の芸能欄に、模倣犯の9年後が主役は仲間由紀恵となって作られるらしいので、それに期待してみようとは思っている。

 

原作を読んでみようと思っているが、原作でも、あの犯人の不幸ゆえの闇を、あっけらかんと拒絶するだけの大人しかいないのだろうか? もちろん凶悪な犯罪を憎み受け付けられないのは当然のことではあるが、犯罪のひどさであればあるほどそこに至った人間の不幸を、深い慈悲に突き動かされる存在者がだれ一人いないというのも”人類の闇”であることに気が付かぬ、というのも深い闇であるわけだが・・・。