万魚の雑々日記

ドラマや映画や文学のこと。要介護の継母のこと。自分自身のこと。・・・福島原発事故後、置き去りにされた猫たちに給餌に通った頃のこと、いっしょに暮らすちょっと多めの犬や猫たちのことを書いた別ブログもあります。(なぜぼくらはおいていかれたの)

立ち直るために

数年前ブログを書きはじめた頃、どれも難しくてあれこれ迷った。

はてなブログに出合って落ちついた。初心者には使い易かったからだ。

 

最初はドラマや本の感想、暮らしの中のちょっとした出来事などを書いていたが、やがて捨てられる猫や犬の問題、そして原発事故以降は置き去りにされた動物のことを書くようになり、次第にそれ一色になっていった。

 

来る日も来る日も動物たちへの痛みと国や行政への不信を書きつづった。それ以上にがむしゃらに福島に通い動物たちにごはんを配った。やがて私はそれだけに埋没していった。

こうした動物問題に直面し抱え込む成り行きになる以前から、私は自分の社会性の未熟と不徳の故に、内面が蝕まれて自信を失っていく傾向があって、そのことにも苦しんでいた。

 

それに加えて、営々と人間が作り上げている貧しい動物政策と、結果惨い現状を身に受け続けてている猫や犬のたちへの悲しみ、そして、置き去り餓死という無残な施策がとられた原発事故以降の筆舌に尽くし難いやりきれない思い、救えない自分の非力を許し難く思う重圧は、歩くための一歩を前に出す、と言う行為すらぼんやりと忘れさせるほど疲弊していったのだ。 

 

自分は、身体も精神も蝕まれていくだけだ。世界は悲しみだけだ。人の多くは悪意と蔑視に占領されている。命、愛、優しさなどという言葉の溢れるところにこそ冷酷が潜んでいる。そこでは誰かを滅びさせるのを競い合っている。

 

私は蝕まれている。あとわずかの生きる時間を、こうして終わらせてはいけない。

かって私は、自ら求め当時住んでいた小さな町のキリスト教会の門をたたき、洗礼を受けた。時々に私は、『この時代にイエスが人間として生きておられたら、どのように生きられるだろう。イエスがどのように生きられようとも、私はイエスの支えになる生き方をしたい』と思っていた。

この思いは、もしかしたら、「イエスを支えたいとはなんという傲慢、無知」と顰蹙をかうことかもしれない。だがそうであっても私はそう思うことがよくあった。

 

そう、蝕まれたまま怠惰に終わってはいけない。

我に返ったように、埋没から這い出て、天の陽光を浴び風にそよがれたいと思った。動物たちのことも、陽光のもとで見つめたいと思った。

 

立ち直るのだ。

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書く、表現、という行為は力がある。

少なくとも自分の思いや考えの推移がそこにあらわれる。その時、その時の自分の姿が顕われる、とも言え、そのこと自体が自分には力になるのだ。

そう感じ、新たにブログを立ち上げようと思った。

そこで再びはてなブログにしてみた。

はてなは初心者向けで易しいから、と思ったからだが、なんと数年ぶりのはてな、なんだか難しくなっている。(汗)