万魚の雑々日記

ドラマや映画や文学のこと。要介護の継母のこと。自分自身のこと。・・・福島原発事故後、置き去りにされた猫たちに給餌に通った頃のこと、いっしょに暮らすちょっと多めの犬や猫たちのことを書いた別ブログもあります。(なぜぼくらはおいていかれたの)

本当は

介護施設に清掃のパートに行くようになって思うこと。

率直に言って体調的にはとてもつらい。食欲がおちて無理に食べようとすると気持ちが悪くなるぐらいである。

でも、楽しい。

朝職場につくと洗濯場に直行して、洗濯機をまわすことからスタートする。

洗濯機がぐるぐる回っている間にそこらを掃き、利用者さんの使ったものを入れる箱を作っておく。

それから館内1階、2階のゴミを回収。それを整理して、洗濯場に戻る。それから利用者さんのお食事の場、広い食堂にモップをかける。それが終わると、洗濯場に再び戻り、膨大な数のタオル類を使用する形にしていったり、やはり膨大な量の乾いた洗濯物をたたんでいく。

 

これらの作業中、黙々黙々と頭の内が果てしない自由を満喫する。これがとても楽しい。

もっと楽しいのは、ゴミの回収とモップかけの時に、行きかう利用者さんと会話をする、このわずかな瞬間がとてもとても好きなのだ。

多分晩年の夫と同じようなのだろう、認知症の利用者さんの何人かは、私を見ると、「おー、また会えた。えらいねー」と声をかけて下さるのだ。

「頑張れよ、頑張れよ」、「身体気をつけてね、よくやってえらいわね~」。

温かいまなざし。開ききった笑顔。清々しい心の色。

 

人間は、殆どの人がどろどろと生きて他者と闘い・・・・・このように戻って死を迎えるのか・・・孤独が魂までも岩のようにして窓の外を見つづける人も、その視線の先は、”光”に違いない。きっとそうだ。

 

私はふと、その場が、動物たちも交じって、そう最近死んだもんちゃんもきーちゃんもいて、そんなみんなと晴れ晴れとそこに迎えてもらっているような、そんな安らぎに満たされるのだ。

暮らしにこと欠くような貧しい時期を迎えてしまったことは、ひとつも不幸ではないのだ。こんな楽しい日がきた。

 

私は恐ろしい人間にもあってきて、人間が大っ嫌いだと思ってきたが、本当は人間が好きなのかもしれない。自分が出合った猫や犬やほかの動物と同じく。