NHKアーカイブス この子らを世の光に
つい今、糸賀一雄の思想と実践として有名な、『この子らを世の光』を映像化した番組を観た。
障害者の存在を、”障害者に世の光を”ではなく、”障害者を世の光に”と気づき、実践をしてこられた糸賀先生と、それぞれの人格と思想を培いつつ、糸賀先生を支えともに歩まれた、池田太郎先生、田村一二先生の姿と思想と実践を追った何年も前の番組を紹介した番組である。
『障害者と健常者がともに生きていける社会こそが豊かな社会である』を実践し続けてこられた糸賀先生と池田先生と田村先生。 私は若い頃保育の勉強をして幼稚園教諭をしていたので、知識として糸賀一雄の存在は知っていた。だがすっかり忘れていた。
そしてこの夏から介護施設の掃除人として働きはじめ、施設の仕事の研修の講義をして下さった先生が、『糸賀一雄』を大変尊敬されている形で話をして下さり、糸賀一雄の名前を出されたのだが、この瞬間、思わず、『あっ』と声をあげそうになった。
なんで忘れていたんだろう、というショックがあった。
時間がないのでつらつら書くのは止めるが、ちょっと書き出しの題からずれるが、ひとつだけ書いておきたい。
世の中にはさまざまな形で偉大な生き方をする人がいるものだと、胸がじんじんじんじんする。マザーテレサさんや宮城まりこさん・・・・・私にとって強烈な偉人は、先ごろ亡くなった多くの犬猫を救い続けられた千葉の『藤田美千子さん』。
そしてこれから日本の、いえ、世界の偉人と誰もが認めるだろうと今思えてならないのが、小池百合子都知事である。そう感じる理由は、何をしたとか、どういう高い人であるとかということではなく、”魂の扉を開いて目の前の人や出来事をまっすぐに見れる人”だからだ。
”魂の扉を開いて目の前の人や出来事をまっすぐに見れる人”。テレビの中であるが、私は小池さんをこう認識した時、本物はこうやって顕われた! と思った。
真の偉人はこの点にある気がする。ガンジーもそうであった気がする。マンデラさんも。おそらくオバマさんも権力から離れられて以後、そう生きられるのではないか、と思う。
そうそう、もうひとつ書いておきたい。
『障害者と健常者がともに生きていける社会こそが豊かな社会である』
の中に、犬や猫たち身近な動物(ほかの動物は別の意味と理解がともなうのでここではこう書く)も入ることを願う。
さ、犬の散歩をして、おばあちゃんのごはんだ。
docomoスマホのその後
猫のポクちゃんに起こされてしまった。そこで一個記事を書いておくことに。
前にぼやいたスマホの件だが、結局、☎だけとしてしか使えない。あまりのことに、ちょっと遠い町のdocomo店に行ってご教授をお願いした。
「ポストに入っていたラクラクスマホのチラシを見て、隣りの市のS市の大手スーパー内のスマホ店に行ったのですが、”このチラシのはよくありません。初心者の方にお勧めは絶対これです”と言われて購入したのですが、さっぱりわかりませんで困っています」と言ったら、対応して下さった女性の方は、「これが絶対と言ったんですか」と首をひねりつつ、「待ち受け画面がこれでは初心者さんにはとても難しいので、わかりやすい待ち受けにしておきましょう」と言って、☎、電話帳、メール、アプリなどが押せばいいような画面にして下さった。
「わっ、これ、わかりやすい!」と喜んだ私、『有能な店員さんに会えてよかった♪』と帰った。
ところが、なぜかメールが使いづらく結局使えないまま。(電話帳の携帯アドレス登録の方にはアドレス変更のお知らせを送ったが、あれは遠くの町の有能な店員さんにやってもらった。(ありがとうございました♪!)
とにかくこの事態にすっかり落ち込んでいる。
大手スーパーの店に最初に行った時、店の外の通路で2時間もかかって対応してくれた男性店員の説明がなんだか明確でない気がした上に、あと1分で製品をお渡しできますと言っておきながら、別の店員が、「あと2時間かかります」という展開を告げたものだから、私は怒りを露わにして翌日の予約をとって帰宅したのだが、その翌日の予約時間に、別の店員が対応して、また別のスマホを出し、「これがいい」と勧めてきたのだった。
でもいいと言っておきながら、それは、「電話でサポートができないタイプ」と言った。サポートしてもらえないとは初心者の私にとっていいはずがない。
とどのつまり、私はもともと馬鹿にされた客であった上に、前日の展開に怒りを見せた、その仕返しを受けての今のスマホ、ということになった気がする。・・・なんてひねくれたたことまで考えてしまって、トホホホのため息ばかりの出るスマホ展開である。
遠くの市の店の女性店員さんは、「これはちょっと難しいと思いますので、困った時はいつでも来てください」と言って下さったが・・・・・買ってすぐに宝の持ち腐れ状態にしたままになっている私のスマホ。
それにしても、最初の店の外の通路で対応してきた店員が、やけに細かくこちらには重要な個人情報を聞いてきて、自分のタブレットに打ち込み、画面を見ながら、「ああ、これで全部わかりました」と言ったあれ、スマホ購入に必要だったことだったのかなぁ、大丈夫かなぁ~~~~~とそんなひねくれ心配までしてしまうスマホ。
この顛末をトータルで見れば、結局、私の無防備さ、いいなりになった愚かさもまた問題だったんだよなぁ~~~~~、私の人生、こんなことばっかりだよ。自分にまったく!
※別ブログより転載
※最初の記事を少し書き直しました。
最近のニュースや自分の日常からメモ日記
■ボブディランさんのノーベル文学賞
平和賞ではいけなかったんだろうか。そのほうがぴったりくる。
■沖縄よ
土人て言われたんですね。どこまで私たちは無知で人でなしなのでしょう。・・・でも残念ですが、私たちの多くが、自分もまたこういう言葉を発するレベルであることに気づいていない。その無知と人でなしさを私は恥じているが、恥じても恥じても自分はその程度なのだと思い知ることが多くある。
■事件のもと
さまざまな凶悪事件が起こる。・・・私たちは、人や物事を見るとき、自分の魂を開いて見ているだろうか。自分の魂を自由にして人や物事に対しているだろうか。いいや、私の感じるところでは私たちの殆どは、人や物事を、自分の魂を利益や多数や損得という秤に売り渡してしか見てない気がする。
そこの場の権力の視線のままに人や物事を決めつけていく。・・・このことに多くが気づいて一人ひとりの魂が自由になって人や物事を見るようになったら、凶悪な事件はずいぶん少なくなるのではないか、とずううううっと思ってきた。凶悪な事件の殆どは、決めつけの檻に締め付けられた悲しみから発すると感じてならないから。
■寒くなってきた。また猫ちゃんが捨てられている
見た目はブスイ大人の白猫ちゃんはうちに入って生きることを選んでくれた。そして今、ほかの猫たちとうまくいくように、私は眠る時間を捨てて狭い家の部屋のやりくりや猫同士の軋轢を緩和させるためにどれだけ苦労しているか。こうした猫たちの不妊手術費用や医療費用やごはん費用の獲得のために、早朝から出る掃除人のパートの過酷に耐えながらである。
ほかにまだ子猫の三毛ちゃんもどこかにいる。親から離され慣れた住処から放られた三毛ちゃんの顔つきの哀しさ。なんとか家に入れてせめて飢えなく安心して眠らせてやりたいと心を痛めているが捕まらない。
平然とこちらの人権など踏みつぶして捨てていく人よ。私の辛さ、疲労の重さがわかりますか。わかるわけがない。あなたはそのあなたの口で、「戦争は反対」「思い遣りある社会を」「優しさが大事」と言い、自分に満足をしているのでしょう。たいしたもんです。・・・・・と、このように言ったり書いたりはするまいと何度も肝に銘じるのに、こうして自分の心の貧しさを晒してしまう私です。寂しい秋です。辛い秋です。
若い人が、寂しさに負けず自分の道を見つけることを、せめてせめて祈っている。死ぬな。殺すな。生きてほしい、と。
K子さんに会ってきた
他県まで出かける体調ではなかったが、とにかく会って事態を知っておきたかった。心配でならなかったし。
とても安心した。たしかに事情は重いもので深刻な痛みのともなくものであろうと思ったが、彼女独特の強さが彼女自身を支えているし、ご親族も近くのご友人も既にK子さんにびくともしないものを注いでおられる。
私は今車のナビが壊れていて、行きも帰りも迷い迷いえらい目にあったが、気分はとても軽くなって帰ってきた。
大丈夫だ。
K子さん
自分の現実のしんどさにとらわれている私は、最初の電話ではあなたに起こった現実のむごさに気づかなかった。
二度目の昨日、やっとわかった。
そんなことが起こっていたなんて。
どんなに辛いでしょう。寂しいでしょう。
言葉も出せなかったけど、ひとつだけ言っておきたい。
世界中の世間が何を言おうと、私はあなたの味方です。
もしあなたが望むなら、賢しらな世間を、私が一手に敵にまわしてもいい。そういう世間と権力に、私は闘える人間であることを知っておいてください。
(涙)(涙)(涙)(涙)
(涙)(涙)(涙)(涙)(涙)(涙)
(涙)(涙)(涙)
相棒15はじまる
観た観た。楽しみにしていた。
なかなかよかったじゃないですか。
14で冠城さんがとやかくモンク付けられているのを見かけたけど、15はモンクのつけようないでしょ。存在感もドラマそのものへの影響力も確かで面白かった。ある時期ドラマを全く観なかったから、反町たかしという俳優を知らなかったんだけど、いい役者さんだなと思う。あの骨太さ、めったにない気がする。
「呪い殺人」というのは現実には能力的にそうはないと思うけど、殺人に等しい排除能力を持つ人間はいるな。そこそこ上のほうの力と地位をもっている人の中に多くいる。・・・ということは、そういう人間に標的にされる人もいるということだが、恐れることはない。たとえ殺されても、本気で許してしまえばいいことです。
ナアンチャッテ。実際は許すってそう容易いことじゃないですね。気づかないフリをするのも難しい。・・・じゃあ、ひたすら耐えるか。(笑)
本当は
介護施設に清掃のパートに行くようになって思うこと。
率直に言って体調的にはとてもつらい。食欲がおちて無理に食べようとすると気持ちが悪くなるぐらいである。
でも、楽しい。
朝職場につくと洗濯場に直行して、洗濯機をまわすことからスタートする。
洗濯機がぐるぐる回っている間にそこらを掃き、利用者さんの使ったものを入れる箱を作っておく。
それから館内1階、2階のゴミを回収。それを整理して、洗濯場に戻る。それから利用者さんのお食事の場、広い食堂にモップをかける。それが終わると、洗濯場に再び戻り、膨大な数のタオル類を使用する形にしていったり、やはり膨大な量の乾いた洗濯物をたたんでいく。
これらの作業中、黙々黙々と頭の内が果てしない自由を満喫する。これがとても楽しい。
もっと楽しいのは、ゴミの回収とモップかけの時に、行きかう利用者さんと会話をする、このわずかな瞬間がとてもとても好きなのだ。
多分晩年の夫と同じようなのだろう、認知症の利用者さんの何人かは、私を見ると、「おー、また会えた。えらいねー」と声をかけて下さるのだ。
「頑張れよ、頑張れよ」、「身体気をつけてね、よくやってえらいわね~」。
温かいまなざし。開ききった笑顔。清々しい心の色。
人間は、殆どの人がどろどろと生きて他者と闘い・・・・・このように戻って死を迎えるのか・・・孤独が魂までも岩のようにして窓の外を見つづける人も、その視線の先は、”光”に違いない。きっとそうだ。
私はふと、その場が、動物たちも交じって、そう最近死んだもんちゃんもきーちゃんもいて、そんなみんなと晴れ晴れとそこに迎えてもらっているような、そんな安らぎに満たされるのだ。
暮らしにこと欠くような貧しい時期を迎えてしまったことは、ひとつも不幸ではないのだ。こんな楽しい日がきた。
私は恐ろしい人間にもあってきて、人間が大っ嫌いだと思ってきたが、本当は人間が好きなのかもしれない。自分が出合った猫や犬やほかの動物と同じく。