< ↓当ブログの管理人の思い>
裁判員裁判が施行されたとき、私は裁判員になる市民の人たちの感覚を不信している人間なので、大丈夫なんだろうか、と思った。不信というのは、その人たち個人個人を人間として信じられないということではなく、犯罪を犯す人たちに、自分の常識感覚にとらわれずに、心を開いて向き合えるものがあるのか? という点においてだ。
犯罪に関わりのない普通の暮らしの中ですら、人々の多くは多数や強者の打ち出す思考や流れに染まりやすく、自己の内面の視点を持たないまま誰かを排他したりしやすいではないか。
そのことを体感的に知っている私は、裁判員裁判に危惧を感じていたのだ。
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